Food Chemistry

生ハムとメロン?

究極の食べ合わせ

Text by Sakiko Hirano
Painting by Ulala Imai

アイドル界にタッキー&翼がいるように、イギリス料理界にはフィッシュ&チップスがあるし、お笑い界にタカアンドトシがいるように、フランス料理界にはステーキ&フリットがあるし、音楽業界にDJみそしるとMCごはんがいるように、日本料理界にはみそしるとごはんが……ってそれだとそのまんまだけど、とにかくその他の業界がそうであるように、フード界にも一蓮托生の名コンビがいる。そのふたりはしばしばセットでメニューに記され、食され、愛されている。

しかしコンビと言っても彼らは単に“&”で結ばれているだけなので、互いに独立活動をすることもできる。ステーキはステーキとして、フライドポテトはフライドポテトとして、異なるフィールドで活動を行い、その都度他の食材やブランドとのコラボレーションをするわけだ。その経験を通して元の“&”状態に戻ると、あれ? 本当に僕たちってお互いがお互いを高め合う存在になれてますか? そんな疑念が生まれたっておかしくない。たとえばステーキ肉の油を吸ったポテトは悪くないけれど、もし生まれた場所や時代が違えば、彼らは昭和の名菜こと肉じゃがになっていたかもしれないし、そのほうが互いのよさを引き立て合えていたかもしれない(あー肉の甘みが染みたほくほくじゃがいも食べたい……)。もしかしたらもっと自分に合う相手や調理法がこの世界にはあるんじゃないか。視野を広げれば世界は変わるんじゃないか。そんな皿の外側の可能性を、往年のコンビを目の前にすると私はつい想像してしまう。

(余計なお世話だと思うけど)もしかして君たち惰性で一緒にいるんじゃない? 一緒にいる理由が「今までそうだったからこれからもそうだ」なんて帰納法的な考えに基づいているのだとしたら考え直したほうがいいよ。その思考停止状態が、君たちのポテンシャルを引き出し損ねているのだし、大きく言えば食文化の進化を妨げてるかもしれないのだよ! 果たして君たちは真なる名コンビか? この命題をつぶさに問い、検証していくことを食材自身としても作り手としても食べ手としても大切なんではないのか? そう誰に頼まれてもいないのに熱くなってしまう私がここにいる。だってそうじゃなければ、餃子に酢胡椒をつけた時の感動にも、フライドポテトにトリュフマヨをつけた時の衝撃にも、私は出会うことができなかったんだから。

たとえば銀座のとある星付き割烹のご主人はこう言っていた。「焼き鮎には蓼酢を添えるのが和食の定番です」。たしかに鮎の横にはいつも緑色の葉っぱが刻まれたお酢がある。「でも私は蓼酢は添えません。蓼なんてたまたま鮎が釣れる川岸に生えてただけなんです。それを摘んで鮎と食したのが始まり。鮎の美味しさを生かしたいなら別に蓼酢なんかなくたっていいんです」。そうしてご主人は塩焼きした鮎たちをどさっと皿に盛ってどや顔で差し出した。これをそのまま食え、と。かぶりついた鮎は身の甘みやコクがダイレクトに感じられてうまかった。蓼酢の呪縛から解放された鮎は、なんだか活き活きしていたよ。

これ以降、名コンビの真贋を調査するフードコンビ探偵となりつつある平野だが、これは敵わない、最強のコンビだ、と手放しで喝采したくなる定食がある。それが牛タン定食だ。定食というのは、主菜・副菜・汁物・漬物・ごはんの5点セットがバランスよく配されて一度に提供される食事形態だ。もちろんそれぞれの食材はそれぞれの立場からその実力を発揮しなければならないし、もし誰かが不調状態にあるのなら他の誰かがフォロー役に回って全体の満足感を担保しなきゃいけない。悪い例で言えば、私はとんかつ定食にいつだって納得がいかない。あの定食、どうしても米が残る。そもそもとんかつに米は合わないからだ。分厚いとんかつを頬張る時、米は邪魔でしかない。無理に一緒に食べても口の中で混ざり合うことがない。一体感がゼロだ。しかも甘いソースと甘い米の相性もそれほどよくない。更にとんかつの横のキャベツも憎い。あれは箸休めなのか健康志向なのかしらないが、味の実態としてはほとんど水なので、カツと一緒に食べると味が薄まって不快だ。ならばキャベツだけで、と食べてみるといちいちとんかつのグルーヴに水を差す存在感。そのくせやたら多い。結果的にどうしても残る。食べ散らかったテーブルのうえを見てよく思う、なんかバランス悪い食事だなーと。

それにひきかえ牛タン定食はどうか。まず熱々の牛タンを頬張る。適度な油と肉の歯ごたえがうまい。それを米に巻いて食べる、米に油と塩気が染みて、甘みが感じられてうまい。さらにスープを一口。牛タン屋のスープは牛テールスープ=出自が一緒なので、阿吽の呼吸で肉のうまみを底上げしてくれる。それを繰り返すうちに疲れたら南蛮漬けと浅漬けをひと噛み、この南蛮漬け(非常に辛い)が停滞しかけた食欲をまた加速させてくれるし、浅漬けも乳酸発酵のうまみがあるため箸休めの立場を担いつつキャベツのように味覚を白けさせたりはしない。それでも終盤スピードが落ちてきたら、ここぞとばかりにごはんにとろろをイン。噛みごたえがあるゆえに顎を疲れさせる牛タンをとろろごはんと共にかきこめば、とろろがうまい具合に潤滑油になってするすると胃袋に落ちていく。するとどうだろう、既に定食の皿は空っぽ。完璧な塩梅で完食できるのだ。お互いの欠点を補いながら、美味しさの北極星を目指すこの定食、牛タン・米・とろろ・南蛮漬け・テールスープの5人組、最強としか言いようがない。この化学反応の奇跡はもっと賞賛されてもいいのに、と私はいつもねぎしで思う。

「新しいご馳走の発見は、人類の幸福にとって天体の発見以上のものである」。この言葉を残したのは18世紀フランスの美食家ブリヤ・サヴァランだ。過去の慣習にとらわれないこと。つねに新鮮な組み合わせを模索し続けること。その先にこそ新しい発見と、古いものへの再発見があるだろう。そうだ。私には未だ解明できていない定番コンビの大きな謎が一つある。それは日本人の大好物・お寿司だ。あの寿司という料理の根幹である“酢飯”と“生魚”、あのコンビって本当に相性いいわけ?……この思いが小さい頃から寿司を食べるたびにこみ上げてしまう。その疑いのせいで「あ、私は寿司の美味しさを感知する能力が低いのだな」とカウンターで隣り合った人の表情を見るたびに思う。でも自分でそう思うんだから仕方ない。思った以上は二つのピースがハマる瞬間を自分自身で見つけるしかない。米と生魚は真なる名コンビなのか。この疑念をこれからの人生をかけて真摯に検証していきたいと思っている。

※PARTNERS Issue #1より抜粋した記事になります