アーティストとは孤独な人間だ。制作するのは基本自分自身。それに彼らは閲覧者全員に作品に込めた意味を完璧に解読されることなどを期待せず、誰かひとりでも分かってくれればいいと思いながら制作する。だからこそ、アーティストがパートナーと呼ばれる人を探すことは重要なのである。一人よがりの制作に新しい視点が加わることで、まるでパズルを繋ぎ合わせるように、今まで見えなかった物事が見えるようになる。また制作する過程やそれに伴う苦痛を知っている人がいるだけでも心の救いとなるのだ。
神奈川県の相模原市を拠点にする今津 景と福永大介は2000年代を代表するペインターである。ふたりの創作スタイルはまったく異なるものだが、アトリエの大きな壁に大判のキャンバスをかけ、隣あわせで椅子を並べキャンバスに絵の具を塗り重ねていく。
アトリエを共有することって結構ストレスじゃないですか? 当然金銭的な面では助かるかもしれませんが……。
今津: 私の場合、考える作業は邪魔されたくないから一人でやるんですけど、描く作業に関しては雑音が入っていても気にならないんです。たまにフッキーがかける音楽がすごく嫌なことがあるぐらい。不穏で……気持ち悪い曲で。
福永: 不穏じゃないよ。
今津: しかも爆音。
福永: 景も討論番組みたいなもの流すときあるでしょ。
今津: 言わないでよ(笑)。
福永: あれはなんでなの?
今津: 絵ばかり描いていると浮世離れしちゃうかなと思って。だって絵描きながら本とか読めないでしょ。ラジオとかでちゃんと社会の動きを知っておきたいなって思っている。
福永: この前は、小説の朗読をしたCDとか聴きながら描いていたし。
今津: 太宰治の『畜犬談』と梶井基次郎の『檸檬』は、かなりおすすめですよ。
福永: すごくいいけど、朗読を聴きながらの作業は結構きついよ……。
アトリエで音楽をかける権利は今津さんにあるんですか?
今津: そんなことないですよ。基本早いもの勝ちです。でも、不快になったら止めてもいいルールは一応あるんです。
アーティストのなかのペインターという同じクラスターのなかでやっているわけですよね。それにほかの仕事と比べると、他人のせいにできない世界ですよね。二人の間で嫉妬が生まれることはないのでしょうか?
今津: フッキーとは画家というところでは同じだけど、やっていることがすごく違うので、比べることができないんです。それにふたりの距離が近すぎて、嫉妬という感情はないかもしれないですね。
福永: 同世代の作家だとどうなの?
今津: ほかの人にもあまり嫉妬とか嫌悪感を感じたことはないかも。
福永: それはどうして?
今津: だって、いろんな人がいろんなことをした方が刺激になるでしょ。私に嫉妬したことある?
福永: ないって言ってしまうと嘘になると思う。基本的にはみんなあると思うよ。むしろある方が自然だと思う。今は景のが売れているのもあるから、どういう風に売れているのかっていうのを目の当たりにして、自分に足りないものを探っているというか。さっき景が言ってたけど、作品がまったく違うっていうところでも、才能の違いに嫉妬したり、うらやましいなと思うところはあるかな。
今津: へぇ〜。
福永: 景の絵にはあまり暗さがないし、こっちに跳ね返してくる感じは、うらやましいなぁって思うよ。自分には出せないものだからね。
今津: へぇ〜。でも、小山(登美夫)さんがこの前あったフッキーの展覧会のオープニングのときに「オープニングにはコレクターが集まるオープニングとアーティストが集まるオープニングの2種類ある。福永くんは、アーティストが集まるタイプだよね」って言っていたよ。そういうのはうらやましいと思いました。
作品の話をしましょうか。福永さんは、大学時代から慣れ親しみ、そしてアトリエもある相模原を中心に、目にした光景を作品にしていますが、このような作風になるきっかけはなんだったのでしょうか?
福永: そうですね。ある時期、リアリティっていう言葉にとらわれていたことがあったんですね。リアリティっていうものの捉え方も人それぞれで、それがたまたま僕の場合は、個人的なものだったり、実感を持つことだったり、また自分で体験したこととか。それから普段の何気ない光景のなかで目に入ってくる存在感あるものが気になりはじめたんです。モップとかタイヤとか……。そこでいろいろな記憶とコンバインされて絵のモチーフになるんですね。
今津さんにとってのリアリティはどうですか?
今津: フッキーより分かりづらいかもしれないんですけど、私も身の周りのものを題材にしています。
福永: ネットを使って探すモチーフもそうだもんね。
今津: 私の場合は、目の前にあるものとか、実際見た光景とかをなんでリアルに思うのかっていう仕組みの方に興味があるんです。それが私にとってのリアリティ。例えば廃仏毀釈で出た仏像を買ったり、支持体となる古材を手にすることとネットで画像を拾ったりとか図書館で資料を集めたりすること、またパソコンのなかで描画すること、絵の具のついた筆を操作することは同じものだと考えています。普遍的なテーマを今の時代にしか作れない方法で制作することを意識していますね。
例えば、筆致でバグを起こしたりということですか?
今津: そうですね。私が学生の頃って、ちょうどiMacが発売された時期なんです。みんながPhotoshopとかを使って画像を加工したり、自分で動画を作ったりできるようになった時代です。誰もがパソコンのスクリーン上でやっていた表現を、あえて自分の身体を使って筆で描く。その遡りみたいなものが、私にとって実感することなんですね。
今津さんと福永さんにとってのリアリティがまったく違いますね。同じスタジオを共有していますし、どちらかがどちらかを手伝うようなことはないのですか?
今津: それはないですね。お互いの作品とかアートについて意見を言い合うことがたまにあるぐらいです。でも、街を歩いていてモップとかを見つけると、「この光景すごくフッキーの絵っぽいな」っていう出会いがたまにあるので、その写真を撮って送ることもあるよね?
福永: そうだね、何枚か送ってもらったことありますね。
今津: 一度も使ってるところは見たことないんですけど……。
福永: ちゃんと記憶としてストックされているから。でも、その人が見た目線というか、僕も写真を撮るし、ストレートフォト的なものが好きなんです。というのも写真って完全にその人の目線が作品になるじゃないですか。人の数だけ視点があると思うんです。ものの見方というか。そういうのを見るのが好きなんです。それだけ世界のいろいろな側面を見ることができる。だから景から送られる写真も、僕っぽいと思って送ってくれているけど、どこか景の視点が入っているのが面白いんです。
アーティストは孤独なものですか?
福永: いつも孤独ですよ。でもパートナーがいるだけで表層的な部分かもしれないですけど、孤独感は緩和される気がしますけどね。
今津: そうですね。一概にその閉塞感が悪いこととは言い切れない部分はあると思います。というのも、大衆を相手にするための伝わりやすいコンセプトとかテクニックに縛られることがないというか。みんなが目にするのは、ある意味出来上がった結果だけなんです。でも、自分の考えとか作品ができるまでの過程とかを説明すれば理解してくれるギャラリーやフッキーが側にいることが大事なんだと思います。
※PARTNERS Issue #1より抜粋した記事になります